
#181 希望という名の枝
僕は歳を重ねるごとに、少しずつ考え方が変わってゆく。
子どもの頃には、すべてが可能に感じて未来は果てしない広がりを見せていたのに、大人になるにつれて、現実の輪郭がはっきりし始める。夢と現実の境目はくっきりとし、かつて抱いていた希望は、まるで乾いた土に静かに染み込んでゆく水のように、形を失って消えていくように感じる。
そんなとき、ふと
「希望とは、消えてしまうものなのか」と考えてしまう。
けれどよく見れば、それは消えたのではなくただ姿を変えただけなのかもしれない。少年には少年の希望があり、青年には青年の、それにふさわしい願いがある。中年にも、老年にも、その年齢だからこそ持てる希望があると思う。
たとえば、かつては宇宙に行きたいと思っていた少年が、今は小さな家庭を守ることに価値を見出すようになった。
あるいは、世界を変えたいと思っていた若者が、一人の誰かの心に寄り添うことを人生の意味とするようになる。
それは、夢が小さくなったのではなく、希望がその人の人生に即した「かたち」に変わったということなのだろう。
人は希望を失ってしまえば、一日たりとも、この厳しい世界を生きてゆくことはできないと思う。実際に僕がそうだ。
だからこそ、希望は人間にとっての「丈夫な枝」だ。
しなやかで、細く見えても決して折れない。
一方で、忍耐は「旅の装備」のようなもの。
寒さにも、嵐にも耐えるために、必要な衣のような存在だ。
この二つを手にして、僕らは人生を歩き続ける。
世界という広く騒がしい道を越え、誰かの墓場という名の終着点をも通り抜ける。その先に何があるのかは誰にもわからない。けれど、僕は信じている。
その旅の果てに、きっと何かがある。
希望は変わる。
でも、希望があるかぎり、僕たちは歩き続けることができる。
その歩みが人生という名の旅を、静かに、しかし確かに、前へと進めていく。